THE SECRET BASSING

どこまで正直に話ができるだろう。
2020年、僕のバスフィッシングのテーマは「秘密」だった。

といっても内緒にしておきたいほど釣れるプラグやテクニック、フィールドのことではなく、釣行そのものを完全な秘密にしてしまおうというものだ。
ほかのだれにも、釣りに行ったことも、起こったことも、釣果も話さない。

けど万が一のことがあったらいけないので、家族には行き先を告げておくが帰宅したらなんの報告もしない(だいたいいつも同じ結果なので聞かれることもない)。
釣り場では写真を撮り、あとで釣行記を書く。
それらは専用のクラウド上にしまっておく。
こうすれば釣行のことを知りうるのは永遠に自分だけになる。

そんな秘密の釣行のことを想像すると不思議な気持ちになってくる。
行き先をどこにするのか。
ロッドは、リールは、プラグはどれにするか。
いつもだって純粋に好きでやってるサーフェスゲームなんだから、秘密になったからといって変わるはずはない。
と思いきや、気がつくとボックスにあんなものやこんなものが仕舞われているかも知れない。
ああ、出発前にもう秘密ができてしまった。

誰にも明かすことができないと思うと、閉ざされた世界のなかで出会う光景が、自分の心の動きが、いちいち強く意識されてしまうようになる。
道中、深夜のコンビニで食料を調達しながら、レジの店長に打ち明けたくなる。

「あなたもこの特別な儀式の登場人物なんですよ!」

孤独という言葉が頭をよぎる。
雪山に普段着で迷いこんだみたいだ。

ところで、こんなばかげたことを思い立ったのは、自粛下で釣行を大っぴらにしにくくなったから、というのとは関係がない。
ホームページやブログの時代に比べてSNSでは刺激的な情報がリアルタイムに更新され発信も容易になってる。
さまざまなコミュニケーションにまみれ、日常でも知らぬ間に影響されている。
バスを持って写真を撮るとき、スマホの画面に表示された自分の笑顔を想像してしまう、とか。

多かれ少なかれ人間の行為には演技的な要素があるのだとしても、外部からの侵食がここまではげしかった時代はないだろう。
この欲望は、誰かの欲望なのではあるまいか?

羽鳥靜夫さんはその著書「BASS OF BASS」の冒頭で「自分のゲームに対して、どれだけ夢中になれるか」と語ったが、まわりの世界との境界があやふやになって我をとらえにくくなっているのだとしたら。
これは釣りにおけるたいへんな問題だろう。

「外」というものの存在を一切シャットアウトするにはどうすればよいか?
思いついたこの企てなのである。

釣りの方は意外といつもの単独釣行と変わらなかった。
理想と不甲斐なさをいったりきたりしながら時間が過ぎていく。

ところが、いきなりあの瞬間が訪れた。
まさか。
よりによって今日。
このブラックバスが釣れるだなんて。

あの人やあの人にすぐにでも電話したい。
覚悟が揺らぐ。
計画はいったん中止して、つぎの機会に延期するのはどうか。
しかし、途中で態度を変えることは、秘密の世界でのもっとも重い罪にちがいない。
取り返しのつかないことになる気がした。

予想していなかったのは、いったん秘密ができてしまうと、今度は秘密の側がふだんの生活を侵しはじめるということだった。
同じボートに乗っておしゃべりをしながら、なんてことない拍子にあの日のことを話してしまいそうになる。
その線を越えてはならないと僕はすごく慎重になる。
友人のこちらを見る目が以前までと変わったような気がする。
僕の身体の輪郭線が強く濃く引かれるようになっているのだ。
そのことが僕を満足させる。

ときどきこっそりアルバムを見返しては悦に入る。
先人が釣りについて「プロセスが大事だ」と語ったことの意味が見えてくるようだ。
それは己を大切にすべしというメッセージだったのではないだろうか。

一方で、「外からの刺激を絶てば純粋な自分が浮かびあがる」と書いたが、そんな単純な話ではないことも分かってきた。
あの日の同船者の言葉。
歴史を背負って生まれる道具や技術。
出会ってきたブラックバスたち。
さまざまな経験が今の自分を作っている。
孤独な世界の孤独な自分の振る舞いにも、誰かの気配が宿っていることを感じる。
これはとても大きな発見だった。

さて、秘密を抱えていること、それ自体がとても崇高な行為に思えてきたころ。
ふと「自分以外の誰も知らないことはこの世に存在していると言えるのか?」という疑念が頭をよぎった。

写真はある。
詳細な記録も残した。
だがこれは本当にあの日の自分が撮った写真なのか、自信がなくなってくる。
なんだか怖くなってヒットプラグを見返すと、深い歯型が何本も刻まれていてほっとする。

生涯の相棒!と喜んだすぐあと、また「どうやって証明できるんだ?記憶違いじゃないのか」と声が聞こえてくる。
わいてくる疑問を止めるものがない。
今さら誰かに話しても不思議な顔をされるだけだろう。
ときどき、叫び出したくなるような不安に襲われるようになった。

つぎの釣りの行き先は決まった。
もう一度、あの湖に浮かぶ。
証となるはずの巨大魚が泳いでいて、この針先が固い上顎を貫いたはずである。
それをもう一度、この目で確かめる。

こうして、秘密は秘密であり続けるために動きはじめる。

ところでなんのためにはじめたんだったけか。
この釣りには友人を誘っていいのだろうか。

そろそろ紙幅が尽きてきた。
さて、昨年の僕の挑戦はさてどこまでが事実で、どこからが想像でしょうか。

もうお分かりだろうが、秘密の種が明かされてしまった後には、本当も嘘も、不確かの泡にのみこまれてしまう。
それが秘密というものの本性なのだ。
そのことに気づいたら、不思議と気が楽になり、ようやくここまで書くことができた。

浅はかな企てだったかも知れないが、ふざけて書き連ねてきたわけではない。
2020年に切実に考えた秘密の釣行について、ここに残すことができたことを、ありがたく思う。

ところで、ここに至ってまたべつ疑問がわいてきた。
このような秘密を他人が持っていないなどと、どうして言えるのか。

今、湖上の小さな空間で時間を共有しているはずの友人。
いつも明るく楽しい彼がときおりみせる慎ましさに僕は惹かれてきた気がする。
同じものではないとしても、そこにはけっして共有されないなにかが潜んでいる。
そう考えるほうが自然に思える。
この思いつきは、今の僕を寂しくさせることはない。

彼のプラグにバスが出た。
山間に歓声が響く。
彼はなんと叫んだのか?同時に声を上げてしまったから分からない。
今、僕らは同じなにかに触れたのだと感じる。それぞれの仕方で。

秘密を抱え戻ってきたこの日常に期待すればいいのかも知れない。
そう思いはじめている。

(2021年12月26日”udon-cha”への投稿文を加筆修正)

THE SECRET BASSING」への2件のフィードバック

  1. 僕の身体の輪郭線が強く濃く引かれるように

    この表現すごくて好きです

    失礼しました

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