
T.B.F.C(TOKUSHIMA BASS FISHING CLUB)が毎年作っている文集、ここ2年ほど書けなかったが今年は書いた。
お題は「となりのブラックバス」。
ふつうに考えれば同船者の釣ったバスのことになるが、「となりのトトロ」を連想してこの「となり」という距離感について考えてみようと思った。
仕上がった文章は自分でも思ってもみなかったものになったが、書いていると生まれる偶然も楽しい。
それにしても、文集のみんなの文章がとても面白い。
どの文章も、独特の瑞々しさに溢れていて、チャーミングだと思う。
バスフィッシングっていいな、という気持ちがこみあげてくる。
人知れず(ほんとに人知れず)こんなイベントを続けているクラブの活動にも敬服する。
ほかのみなさんの文章はどうにかして読んでもらうとして、私のものは一部手を入れてここに転載する。
トップウォータープラッガーがブラックバスに寄せる特別な思いは、かんたんに共感されるものではないだろう。
その距離の微妙さをどこまでも大切にしたい。
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ブラックバスという隣人
ちょうど十年前の釣行記の最後に
「全ては必然なんだ。ブラックバスがいてくれたら」と書いてあった。
出発前の準備から、ふとボックスに加えたプラグ、夜道を走る車中の会話、湖畔での食事、宴の翌朝の暗いうちに声をかけて起こしてくれた友人の声まで。
バスを手にした瞬間、それまでのプロセスはすべてこの今のためにあったのだ。
と思えることがある。
ほんとうはぜんぶ偶然だと分かっていても。
釣れた、ではなく、釣ったといえる釣り。
という話をよく耳にする。
たまたまの出会いに期待するのではなくて、状況を観察し狙いを定め、狂いなく実行する。
そういうバシングを目指すことで、ゲームの中身がぐっと濃くなる。
だけど、プラグを口に入れるか、やめるか、最後に決めるのはバスのほうなのだから、純粋に釣ったといえる状況などそもそもあり得ないように思う。
それに、釣れた、のほうが尊い。
釣ったのだとしたら、それはバスが、このちっぽけな自分という人間の範疇に収まっていることを意味する。
なんという退屈だろうか。
けっしてこちらからは触れられない存在との奇跡的な出会いが、私たちを駆り立てているのではないのか。
とはいえ、必然を追いかけずに偶然に至ることもまた困難なように思えてくる。
すべては偶然なのだからと、勤勉さを捨てて、感謝に努める。
尊い相手と対峙するのに、それはむしろ怠惰な態度にも映る。
必然も偶然も傲慢に思えて身動きがとれない。
ではこういうのはどうだろう。
「神への捧げものは、ふさわしく準備されなければならない」
崇高なる隣人に一瞬触れるためのこのふさわしさをスタイルと呼ぶことを、私たちの神はお許しになるだろうか。