
バスフィッシングは禁止されていない
「ブラックバスの現在地」で書いたのは、日本においてバスの存在はすでに政治に縛られている、ということだった。
特定外来生物への指定についても、生物多様性基本法についても、これらは人間のため、つまりは社会的なことがらである。
例外はないのか、もっと大事な問題はないのか、倫理的に正しいのか、滅ぶべきは人間ではないのか。
そういった疑問とは異なる、冷徹な網に、私たちのブラックバスは覆われている。
とはいえ、バスフィッシングが禁止されているわけではない。
問題とされているブラックバスの在来生物への影響や拡散とバスフィッシングとは関係がないので、それは当たり前であるように思える。
だから私たちがバス釣りを楽しむことになにも問題はない。
はずである。
オオクチバス、コクチバスの拡散について
しかし、ブラックバスとバスフィッシングの関係が問題とされるケースがある。
それがバスの生息域の拡大である。
とくにスモールマウスについては、近年、これまで生息が確認されていなかったエリアへの進出がいくつも報告され、影響が深刻視されている。
こうした拡散の原因として、「少なくとも人為的」としか考えられないケースはあるのだという。
そこでバサーによる釣り目的の密放流が疑われる。
バスの生息域以外への運搬や飼育は特定外来生物法で禁止されており、違反すれば罰せられる。
バサーが密放流によって検挙された例はこれまでにないものの(ブラックバスの密放流自体の検挙例がないはずである)、バサー以外に受益者が考えられないこと、また放流が禁止される前ではあるがバサーによる拡散が確認されていることから、疑いの目が向けられている。
この期に及んでバスの密放流を行うバサーがいるとは想像できないし、それによって儲けを企む黒い業界人のような犯人像も、あまりに現状と離れすぎていて難しい。
想像できるとすれば、それは無邪気な子どもによるいたずらのようなものではないだろうかと思う。
推測によってバサーに悪人のレッテルを貼り、活動を制限しようとする動きは耐えられない。
ただ、こうした状況に対しバス業界はなにも反論しておらず、批判をむやみに拡大させている原因の一端になっていると感じる。
「憶測で犯人を仕立てるな」と言い返すと同時に、釣り人に対しても「放流は法律で禁止されています」と啓発する姿勢を見せなければならないと思う。
釣り人はやってないし、信じているけれど、社会問題と関係する企業や団体として常に啓発に努める。
これが常識的なあり方だと思う。
こうしてバスフィッシングがバスの拡散と結びつくとき、「バスフィッシングの禁止」の主張がされることになる。
キャッチ&リリース禁止
キャッチ&リリースの禁止は外来生物法の成立よりも前のことで、1999年に新潟県が水面漁場管理委員会の委員会指示として発動させたのを最初に、2002年には滋賀県で条例案が可決され翌年4月から施行された。
琵琶湖を有する滋賀県での導入はバサーからの反発が大きく、タレントの清水国明氏らがこの条例を「リリースを信条として釣りを楽しむ権利を侵害する違憲な条例」などとして県を相手に訴訟を起こしたが、敗訴した。
バサーにとって、バスフィッシングとキャッチ&リリースは切り離せないものだが、固有の生態系の保全という当時の(今もつづく)世界的な潮流に即した条例と対立したとき、バサーに勝ち目はなかったのだと今は思う。
袋小路としてのリリース禁止
リリース禁止については、いくつも言いたいことがある。
まずその実効性への疑問。
バサーがバスを釣って楽しんだ後、食べるために持ち帰る、もしくはその場で処分することで個体数を減らす。
そのような方法に効果があるとほとんどのバサーは信じないだろう。
キャッチ&リリースはカルチャーとしてのバスフィッシングに息づいている重要な営みのひとつである。
行為自体への批判はあるとしても、事実としてそれが深く息づいていることは疑いようがない。
だからリリース禁止というは、私たちバサーにとって「バスフィッシングの禁止」に等しい命令である。
そのような現実をあえて無視して、「キャッチ&イートにご協力ください」とか、「リリースしなければ釣りをしても構わないです」となどと要求してくるのである。
こうした欺瞞的ないやらしさがこのルールにはある。
重ねて苦しいのは、決定されてしまった以上、バサーがその実効性に疑問を呈すること自体、反社会的だと見なされてしまうことだ。
ことの経緯やバサーの立場をふまえれば「あなたたちが守れば済む話なのに」という批判がいかに残酷であるか、想像できると思う。
政治というものの残酷さを目の当たりにする瞬間でもある。
これと関連して、もし、バスフィッシングに社会的に居場所を作るための啓発活動をバス業界がするとして、特定外来生物法の遵守や、マナー問題への啓発をバサーに訴えることはできても、リリース禁止の遵守を訴えかけるとなるとそこには大きなハードルが生じるだろう。
ここに至って、リリース禁止がバサーにとっての袋小路として機能することになる。
そして、沈黙を続ける業界やバサーに向けて、違法行為の上に成り立つレジャーだという罵声が浴びせられることになる。
リリース禁止の目的について、特定外来生物への指定直後には、同法の徹底のため、つまりバスの個体数減少だったはずだが、近年は、生息域の拡大を引き金に、バスフィッシングの禁止を実質的な目的としていることが多いように見える。
実効性の乏しさはすでに広く知られているはずだが、バス釣りを禁止できない以上、その代替措置として象徴的に採用されているようにしか思えない。
そうなれば、今やリリース禁止は、欺瞞的なプレッシャーと、禁止という隠すべき本音との2重の運用がなされていると言える。
業界の自浄作用の働きを止め、他者からの憎悪を呼び込み、孤立させる。
このキャッチ&リリースの禁止という規制の、バサーにとっての理不尽さにいつも震える。
こんな気持ちも「勝手」なのである。
バサーにはいくら罵声を浴びせても足りない。
そう憤る人たちがいるのは分かる。
しかし立場が変われば、政治判断によってこのような思いを強いられている人は世の中にたくさんいるのだろうし、将来的にそんな思いをする可能性は誰にでもある。
法をこのように使うことが果たして正しいのか。
この疑問は社会のあり方を考える上で、より大きな問題として捉えられるべきことのように思う。
リリース禁止の拡大
外来生物法の施行時、国はキャッチ&リリース禁止については各自治体で個別に検討し判断するもの、という方針を示した。
2021年4月現時点でラージマウスは14県で、スモールマウスは15県でバスのリリースが禁止となっている(条例もしくは漁業調整規則による)。
これを少ないと見る向きもあろうが、今年の4月からは岐阜県でスモールのリリースが禁止となった。
スモールが新たに侵入し憤慨する方々の気持ちは想像に難くなく、これ以上の禁止を防ぐためにも、バスの現状以上の拡散はあってはならない。
キャッチ&リリース禁止の情報(日本釣振興会ホームページ)https://www.jsafishing.or.jp/thought/catch_release
マナーについて
バサーのマナーの悪さが、各地でバスフィッシングの禁止を招き、また世間から向けられる視線の厳しさの主因になっていることは明らかだと思う。
駐車、ゴミ、騒音、ルアーやワームのロスト、愛想の悪さ、私有地への立ち入り…。
バサーのマナーが良ければ回避のできた問題は多く、またブラックバスのおかれた位置づけすら変わっていたかも知れない。
それくらいこの問題は根が深い。
ただ、ここではマナー問題について深追いはしない。
私は、マナーを守ろう、と「呼びかけること」が問題の解決に結びつくとは考えない。
解決可能な範囲の原因は、「一部の悪い人」よりも、業界のというかカルチャー内の緊張感とでもいうような相互的な関係にあると考えているからである。
加えて、すべてがマナー問題にあるかのような昨今の業界の対応は、ここまで書いてきたブラックバスとバスフィッシングがおかれた状況への関心を遠ざける働きをしているように思う。
だからマナーの啓発は、場合によっては業界の免罪として機能すると同時に、その表面性によってマナーの悪化すら招きかねないものだと思っている。
(私は中学のときの欺瞞的な教師の説教を思い出す)
業界の沈黙
こうしてたどってみると、現在に至るバスフィッシングのあり方は、政治によってコテンパンにされてきた歴史の帰結に思える。
こうなった原因には、バサー自身の行いもあるが、同時に科学的な概念の変化があり、政治的な動向の変化の影響があり、それらに翻弄され失望してきたバサーたちがいる。
今回、調べ物をしていてネット上に当時の記録を見つけた(リンク不可のページのため紹介できず)。
バス問題が盛んだった当時、私は本州を離れていたこともあり、動向は追っても真剣に考えることはなかった。
そんな当時の記録はほとんど消えたものだと思っていたので、空気が残されているこの記録はほんとうに貴重だった。
リリース禁止、また特定外来生物への指定の際に、どれだけバサーたちによる活動や議論が盛んに行われ、努力がなされたのか、その一端を知った。
社会と関わりが大事だと奔走する人たちの姿は新鮮さすら感じた。
それと比べたとき、現在のバス業界が貫く「沈黙」の深さは重い。
バスフィッシングが置かれている状況について正面から受けとめることなく、その不当性のみを時々指摘はするが、自らの責任をもとに釣り人に語りかけることをやめ、ひたすら刹那的にバス釣りを楽しもうというメッセージを発信しているように見える。
そうなったことには理由や経緯があるし、生き残りをかけた業界にとって合理的な方策なのかもしれない。
(一方で、バスフィッシングが社会から認められるように、この時代に積極的な環境保全活動をしている人たちがいることも付言しておきたい)
しかしこの「沈黙」によって、バサーとしての尊厳が蝕まれているよう思うことがあり、私にはそれが無視できない。
ここまでの話をふまえて、最後となる次は自分のバサーとしてのスタンスを書いてみようと思う。
先に書いておくと、それは、バサーに社会的な居場所を確保するものでもなく、大きな声で語るようなものでもない、個人的で凡庸な話になるだろう。
しかしそれがまずは自分にとって納得できる、大事なものになるように、書きたいと思う。
(つづく)
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